LOGIN「……あんな偽善者の腕に抱かれて、随分と満足げだったな、莉子」 地を這うような低い声音が、至近距離で鼓膜を震わせる。見上げる征也の瞳は、普段の冷静な仮面を剥ぎ取り、どろどろとした暗い独占欲に塗り潰されていた。少し伸びた黒髪の隙間から覗くその眼差しは、獲物を逃さない捕食者のそれだ。「……違います、私はただ……っ」「黙れ。言い訳など聞きたくない。お前がその身体を、誰の許可を得て他人に触れさせたのかを問うているんだ」 征也の長い指が、蒼くんが触れていた私の肩を、皮膚を削り取るような強さで掴み直した。蒼くんが残した温もりを根こそぎ奪い去るように、厚い指先が執拗に肉を食い込ませる。衣服の上からでも分かる指先の節くれだった硬さが、屈辱と、そして抗いようのない熱を全身に伝播させていく。 かつて隣に住んでいた苦学生だった頃の面影は、もうどこにもない。目の前にいるのは、圧倒的な力で私を翻弄し、支配することに悦びを見出す冷酷な支配者だ。「……思い知らせてやる。誰が来ようと無駄だ。お前の家族も、その身体の自由も、すべては俺が買い取ったものだということをな」 征也は私の顎を力任せに掴み上げ、逃れられない視線の檻に私を閉じ込めた。熱い呼気が顔にかかり、彼自身の香りと、興奮によって濃縮された男の気配が、私の意識を暴力的に塗りつぶしていく。「……わかっているはずだ、莉子。お前をこの窮状から引きずり出したのは誰だ。お前の母親に、明日を繋ぐための金を、命を注ぎ込んでいるのは俺だけだ」 彼の言葉は、抗いようのない真実となって私を貫く。没落した私にとって、彼は残酷な処刑人でありながら、唯一の救済者でもあった。その矛盾した関係が、私のプライドを微塵切りにし、足元に積み上げていく。 征也は私の髪を乱暴にかき上げ、耳元で低く、けれど逃れられない呪いのように囁いた。「誰が救いに来ようと無駄だ。お前はもう、俺に買われたんだからな」 その言葉と同時に、彼の唇が私の鎖骨の窪みへと深く食い込んだ。「んっ…&h
「あ……っ」 短い悲鳴と共に、蒼くんの指が私の肌から引き剥がされる。 たたらを踏んだ私の背中がぶつかったのは、岩のように硬い胸板だった。上質なスーツの生地越しに、暴力的なまでに熱い体温が伝わってくる。「莉子、お前は俺のもんだ」 征也は私を片腕で抱きすくめたまま、空いた手で蒼くんの胸ぐらを掴み上げた。 グッ、と襟が締まり、蒼くんの顔が苦痛に歪む。高価なネクタイが絞まり、眼鏡がずり落ちた。「お前に何ができる? 莉子の母親に最高の病棟を用意して、これからかかる莫大な費用を全部持つと約束したのは俺だ。サラリーマン風情が、個人的にその額を出せるのか? お前の薄っぺらな『救済』で、進行する病気が止まるとでも思ってるのかよ」「天道、きさま……っ」 逆上して掴みかかろうとした蒼くんの肩を、いつの間にか後ろに控えていた部下たちが抑え込んだ。「神宮寺様、いけません!」「今は退きましょう!」 必死の形相でなだめる部下たちに囲まれ、蒼くんは苦虫を噛み潰したような顔で眼鏡を直した。その目にはもう優しさの欠片もなく、獲物を横取りされた猟犬のような、暗く粘着質な悔しさだけが澱んでいる。 彼は部下たちに引きずられるようにして、足をもたつかせながら出口へと追いやられていった。去り際、私に向けられた視線は、執着そのものだった。「失せろ。二度と俺の敷地に入ってくるな。莉子はもう、俺が買ったんだ。こいつの意思も、身体も、時間も、全部な」 征也は汚いものでも触るように、掴んでいた手を離した。 重厚な通用口の扉が、部下たちの手によって開かれる。「次にその指一本でも莉子に触れてみろ。神宮寺の家ごと消し去ってやる」 力なく夜の闇へと追い出された蒼くんの背後で、分厚い鉄の扉が冷酷な音を立てて閉ざされた。 ドン、という重い音が腹の底に響く。 残されたのは、耳鳴りがするほどの静寂と、征也の荒い呼吸。そして私の身体を包む、ミントと煙草の入り混じった男の匂いだけだった。 ◇ 外界との繋がりが断たれた瞬間、ホールは密室に
二人の男の視線がぶつかり合う。張り詰めた空気は、もう限界寸前だった。私の心臓は早鐘を打ち、口の中は鉄の味がした。「莉子ちゃん、こんな男の言うことを聞く必要はない。僕が……僕が守るから」 蒼くんが耳元で囁き、さらに私を自身の身体へと引き寄せる。 鼻孔をくすぐるのは、高級な石鹸の香りと、微かな汗の臭い。痛ましげに眉を下げているけれど、二の腕を掴む指には、鬱血するほどの力が込められていた。 痛い。骨が軋む。 それは慈愛なんかじゃない。誰にも渡したくないという、子供じみた所有欲だ。 その必死な様子を、征也は鼻で笑った。冷ややかな侮蔑を含んだ笑みだ。「守るだと? 口だけは達者だな。こいつの母親の命を買い取ったのは俺だぞ」 征也が最後の一段を降り、大理石の床を踏みしめる。「一億近い手術費用に、特別病棟の維持費。お前のところの銀行は、担保も持たない人間にその額を無利子で即日貸すのか? 救い出すと言いながら、結局は自分の懐からは一円も出さず、会社の金と看板でいい格好したいだけだろ」「それは……っ」 蒼くんが言葉に詰まる。図星を突かれたのか、整った顔に焦燥が浮かんだ。視線が泳ぎ、脂汗がこめかみを伝う。「莉子、そいつの手を振り払え」 征也が目前まで迫る。 鋭いミントの香りが、雨の匂いを含んだ湿った空気と混ざり合う。彼自身の高い体温が、蒼くんの清潔な匂いを塗り潰すように迫ってきた。「約束したはずだろ。二十四時間、俺に従うと。……今、お前の主人が誰なのか、ここで分からせてやろうか」 射抜くような征也の黒い瞳に見据えられ、身体の奥が熱を持って震えた。昨夜、首筋につけられた痕が、彼の低い声に呼応するようにドクンと脈打つ。 ◇「莉子ちゃん、騙されないで。そんな口約束、無効だよ……っ。僕と一緒に来れば、最高の弁護士を用意する。君のお母さんだって、もっといい病院へ転院させてあげるから」 蒼くんの声が上擦った。温厚な仮面が剥がれ落ち、その下から余裕のな
かつて、私と征也、そして目の前にいる蒼くんの三人は、泥だらけになってこの辺りの坂道を駆け回っていた。擦りむいた膝の痛みも、夕焼けの匂いも、三人で共有していたはずだ。けれど、月島家がすべてを失ったあの日を境に、私たちの時間は断絶した。 数年ぶりの再会。けれど、そこに懐かしさが入り込む隙間など、針の穴ほども残されていない。 吹き抜けの玄関ホールは、墓所のようにひっそりとしていた。頭上のシャンデリアは光を落とさず、高い天窓から差し込む曇天の光だけが、磨き上げられた大理石の床を鈍く照らしている。 足元から這い上がってくる冷気に震えていると、蒼くんの掌が私の肩に触れた。 じわり、と彼の体温がジャケット越しに滲んでくる。それは優しげに見えて、実際は逃げ道を塞ぐ鎖のように重く、私の骨に食い込んでいた。「莉子ちゃん、顔色が悪い。……行こう。こんな場所、君がいていいところじゃない」 眼鏡の奥、私を値踏みするような視線が肌を這う。 次期頭取候補と持て囃される神宮寺蒼。その穏やかな微笑みは、世間では救済の象徴かもしれない。けれど今の私には、彼の背後にちらつく「家」という別の檻が見えてしまう。彼が身につけたスイス製の高級時計が、静寂の中でチクタクと神経を逆撫でする音を立てていた。「蒼、くん……。どうして」 喉が張り付いて、うまく声が出ない。かつて味方だと言ってくれた彼の温もりに縋りたくなる弱い心と、この屋敷の主に対する恐怖。その二つが内側で喧嘩をして、足が竦んで動かない。 その時だった。 カツ、カツ、と硬質な音が響いた。 革靴が石の階段を叩く、一定のリズム。それはまるで、追い詰められた心臓の音に重なるような、冷徹な響きだった。「人の家の玄関先で、随分と騒がしいな」 ホールの空気が、一瞬で凍りついた。 見上げれば、緩やかな弧を描く大階段の踊り場に、征也が立っている。 完璧に仕立てられたチャコールグレーのスリーピース。乱れのない黒髪。手すりにかけた指先一つに至るまで、彼はこの空間の支配者として君臨していた。見下ろす瞳は、侵入者を排除しようとす
翌朝。 カーテンの隙間から差し込む光は白いのに、昨日の夜、氷で冷やされたはずの足首だけが、まだ芯が燻っているみたいに熱い。 洗面台の鏡を覗く。髪をかき上げると、うなじに残された赤い鬱血痕が、白い肌の上でやけに生々しく主張していた。指先でなぞると、そこだけ微熱がある。 糊の効きすぎた家政婦の制服に袖を通す。肌を擦るゴワついた感触が、何度も私を現実に引き戻した。 割り切らなきゃいけない。これは母さんの命を救うための仕事だ。 それなのに、頭のどこかで、昨夜の征也の体温を反芻している。私の足に額を寄せた時の、あの飢えたような視線が皮膚に張り付いて消えない。 一階へ降り、冷え切ったフローリングの感触を確かめながら掃除用具を手に取る。その静寂を破るように、重厚なチャイムの音がホールに反響した。 こんな朝早くに誰だろう。征也は二階の書斎に籠もっているはずだ。 軋む音を立てて重い扉を開ける。流れ込んできた湿った朝の空気と一緒に立っていたのは、埃っぽいこの洋館には不釣り合いなほど、清潔で綺麗な男だった。 「……莉子ちゃん」 風に揺れる栗色の髪。銀縁の眼鏡の奥で、優しげな垂れ目が細められる。 神宮寺蒼(じんぐうじ あおい)。 完璧に仕立てられたチャコールグレーのスーツには、座り皺ひとつない。手首で鈍く光るパテック・フィリップが、ここに来るまでの移動手段すら特別であることを物語っていた。かつて月島家がダメになった時も、変わらずに接してくれた幼馴染だ。 「蒼くん? どうして」 「探したよ。急にいなくなるから、心配で仕事も手につかなかった。……まさか、こんな男のところで家政婦なんてさせられてるなんて」 蒼くんは痛ましげに眉を寄せると、私の肩を掴んだ。 ふわりと香る高いコロンの匂い。けれど、華奢な肩に食い込む指の力は、痛いほどに強い。眼鏡の奥、一瞬だけガラス玉のように光を失った瞳が、獲物を探すように屋敷の奥を睨みつけた。「人の家の玄関先で、騒がしいな」 頭上から降ってきたのは、室温を一気に下げるような、温度のない声だった。 振り返る。階段の踊り場、暗がりに溶けるように征也が立っている。 隙のないスリーピース姿。気怠げに見下ろしているが、マホガニーの手すりを掴む指の関節だけが、白く浮き上がるほど強く握りしめられていた。 「
「昨夜のキスよりは、マシだろ?」 耳元に吹きかけられた息が、熱い。 至近距離で絡んだ視線。その瞳の奥には、こちらの動揺を値踏みして楽しむような色が混ざっている。 「っ……そんなこと、今、関係ないはずです……!」 「大ありだ。お前の体は爪の先まで俺が買った。契約書にそう書いたはずだが」 ドサリ、と氷嚢がソファに放り出される。 空いた手が伸びてきて、強引に顎をしゃくり上げられた。 逃げられない。 整った鼻筋が、触れそうな距離まで迫ってくる。昨日の夜、無理やり口移しされた苺飴。あの甘ったるい味が、条件反射みたいに喉の奥で蘇った気がした。 顎を掴む指に力がこもる。 冷ややかな顔立ちとは裏腹に、触れ合う肌から伝わってくる体温だけが、異常に熱い。 「……なんだ。昨日はあんなに欲しがってたくせに、今さら淑女ぶるのか?」 鼓膜を撫でるような低い声。 唇の感触がフラッシュバックして、顔が一気に熱くなる。 「あれは、あなたが……無理やり……っ」 「命令に従っただけ、か。いい心がけだ。なら、今も俺の言うことを聞け。……俺を見ろ、莉子」 名前を呼ばれた瞬間、心臓が嫌な音を立てた。 番号でも「家政婦」でもない。昔みたいに名前を呼ばれるのが、どんな暴言よりも一番堪える。 征也は満足そうに目を細めると、視線を再び足元へ落とした。ゴツゴツした大きな手が、腫れた患部を包み込むように握り直す。氷嚢の冷たさと、掌の火傷しそうな熱。極端な温度差で、頭がぐわんとした。 「怪我をしてまで外の薔薇なんか見に行くからだ。そんなにあの場所が惜しいか」 「……あそこは、私の家でしたから」 「今は俺の土地だ。咲いてる花も、土の一粒まで俺のものだ。……そこで転がってたお前もな」 隠そうともしない独占欲。 征也は跪いたまま、ゆっくりと足首に顔を寄せた。長い睫毛が触れそうだ。熱い呼気が、赤く腫れた皮膚に直接吹きかかる。 「な、にを……っ」 足が竦む。 唇が触れる寸前。彼は愛おしむみたいに、あるいは自分の所有物であることを確かめるみたいに、足首のラインを鼻先でなぞり、深く息を吸い込んだ。 「……匂うな。泥だらけになっても、お前だってすぐにわかる」 逃げ場なんてないと言われている気がした。 足首を舐められるんじゃないか。そう思うくらい